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紅花

河北町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。

紅花
日本遺産「山寺が支えた紅花文化」

文化庁が認定する「日本遺産(Japan Heritage)」について、河北町が関係する「山寺が支えた紅花文化」が2018年度「日本遺産(Japan Heritage)」に認定されました!山形県内では出羽三山「生まれかわりの旅」、「北前船」、「サムライゆかりのシルク」に続く4件目となり、村山地域では初の認定となります。

日本遺産(Japan Heritage)とは

「日本遺産(Japan Heritage)」とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

「山寺が支えた紅花文化」の概要

鬱蒼と茂る木々に囲まれた参道石段と奇岩怪石(きがんかいせき)の景勝地「山寺」。この山寺から始まった紅花栽培と紅花交易は莫大な富と豊かな文化をこの地にもたらしました。石積(いしづみ)の板黒塀と堀に囲まれた広大な敷地を持つ豪農・豪商屋敷には白壁の蔵座敷が立ち並び、上方文化とのつながりを示す雅な雛人形や、紅花染めの衣装を身に着けて舞う舞楽が今なお受け継がれ、華やかな彩りを添えています。この地の隆盛を支えた山寺を訪れ、今も息づく紅花畑そして紅花豪農・豪商の蔵座敷を通して、芭蕉も目にした当地の隆盛を偲ぶことができます。

構成市町 河北町、山形市、寒河江市、天童市、尾花沢市、山辺町、中山町
河北町内の構成文化財 紅花資料館、林家舞楽、旧安部家住宅、紅染衣装、雛人形ほか

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日本農業遺産「歴史と伝統がつなぐ山形の最上紅花」

歴史と伝統がつなぐ山形の「最上紅花」
~日本で唯一、世界でも稀有な紅花生産・染色用加工システム~
日本農業遺産認定(平成31年2月15日)

※山形県紅花振興協議会は、令和2年7月22日、世界農業遺産への認定申請に係る承認について申請しました。

日本農業遺産とは

日本農業遺産は、我が国において重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を、日本農業遺産の認定基準に基づき、農林水産大臣が認定を行う制度です。

社会や環境に適応しながら何世代にもわたり継承されてきた独自性のある伝統的な農林水産業と、それに密接に関わって育まれた文化、ランドスケープ及びシースケープ、農業生物多様性などが相互に関連して一体となった、将来に受け継がれるべき重要な農林水産業システムを認定する制度です。

農林水産業システム名

歴史と伝統がつなぐ山形の「最上紅花」
~日本で唯一、世界でも稀有な紅花生産・染色用加工システム~

システムの概要

当地域の紅花生産と染色用への加工技術は、室町時代末期以来約450年の歴史を有しています。

最盛期の江戸時代には、紅花を染色用素材に加工した「紅餅」が、最上川の舟運で上流の米沢から酒田に集められ、北前船で京都まで輸送され、伝統的な神事の装束に用いられるなど、日本の伝統文化の発展に大きく貢献してまいりました。

紅花生産者は、朝もやが出るなどの気象条件を生かしつつ、他作物との「輪作」や有機質資材の施用により連作障害を回避する栽培方法や、収穫した花びらを自ら染色用に適する「紅餅」に加工する技術を伝承してきました。

こうした日本で唯一の紅花の生産・染色用加工システムが評価され、認定に至りました。

認定団体

認定団体 山形県紅花振興協議会(会長 山形県知事 吉村美栄子、副会長 山形市長 佐藤孝弘)
組織団体 山形県、山形市、米沢市、酒田市、天童市、山辺町、中山町、河北町、白鷹町
山形県農業協同組合中央会、山形市農業協同組合、山形県花き生産連絡協議会、山形県紅花生産組合連合会、出羽もがみべにばなの会、山形市高瀬紅花生産組合、白鷹紅の花を咲かせる会、山形県観光物産協会、米沢織物工業協同組合、置賜紬伝統織物協同組合、山形中央クッキングスクール、落合「最上紅花」若菜を広める会、JAてんどう女性部やまぐち紅花若菜会
認定地域 最上川流域(山形市、米沢市、酒田市、天童市、山辺町、中山町、河北町、白鷹町)

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紅花の豆知識

紅花の原産

今ではハナといえばさくらのことですが、昔は紅花のことでした。ハナ畑・ハナ摘み・生バナ・ハナ寝せ・干バナ・水バナ・ハナ染など、いずれも紅花にかかわることばです。

紅花は中近東が原産地といわれているキク科の植物です。耐寒性で、茎の高さが1メートル内外、7月上旬には茎頂にアザミに似た鮮黄色の可憐な花をつけます。

それでは、紅花は原産地から、どういう道をたどって日本に来たのでしょうか。

中国の有名な『西域物語』という本には、「今から2200年程前に張騫(ちょうけん)という人が中央アジアに行った時紅花の種を持って来た」と書いてあります。漢の武帝の時代のことで、張騫は紀元前139年、武帝の使者として長安を出発しました。武帝は大月氏と結んで匈奴を攻めようというはからいでしたが、張騫は不運にも途中で匈奴に捕らえられますが、自力で脱出して長安にもどって来た、というえらい人物でした。

張騫が紅花を中国に持ってきたというのは、彼の偉大さを伝えるための物語で、紅花の普及は決して彼一人の力ではなかったと思われます。シルクロード沿いに住む多くの人たちが、長い年月をかけて次々に紅花の栽培法と染色法を中国に伝えたのでしょう。

中国産の絹はヨーロッパ人から好まれ、シルクロード(絹の道)を通って西へ運ばれましたが、紅花は同じ道を西から東へ渡って、中国にきたことは確かです。

文化の東漸にしたがって、中央アジアからインドなどに伝播した紅花は、推古天皇の時代(593~629)に中国との文化の交流によって、わが国にもたらされたといわれています。

紅花の植物誌

学名:Carthamus Tinctorius L.
1753年にリンネにより命名(Carthamus=アラビア語の染めるTinctorius L.=ラテン語の染色用の)
【双子植物綱-合弁花亜綱-ききょう目-きく科-きく亜科-管状花族-あざみ類-やまくぼち亜類-ベニバナ属(20種)】

草たけ0.5~1.2m、葉は硬く、互生し、深緑色、広皮針形で先がとがり、ふちに鋭いとげ状のきょ歯があり、7月上旬アザミに似た鮮黄色の花をつけ、花弁はやがて赤色に変化します。花は茎頂につき、管状花で径2.5~4.0cm、長さ2.5cmくらいの頭花をつくり、最初に開花するのが主茎頂花で、ついで各節の第1次分枝頂花が開花、その後第2次分枝が開花します。総苞は外側のものが大きく、葉状となり(包葉)、ふちにとげがあり、そう果(子実)は白色で、光沢があり、長さ6mm、冠毛は非常に短く、8月上旬に成熟期に達します。茎の太さは7~8mmで7~15本くらいの分枝が発生し、根は直根性の太い根が発達し、移植を嫌います。

染色資料、口紅などの化粧品として栽培されています。

紅花の品種

現在、県内に栽培されている紅花は、ほとんどが出羽在来種の中生種の中から山形県立農業試験場で系統分離した「もがみべにばな」と呼ばれているものです。また、在来種の中から系統選抜したものに「とげなしべにばな」があり、これは主に切り花用に用いられています。その他、紅色素を持たない「黄色種」や「白色種」などの変わった紅花もあり、さらに早生種、晩生種、アメリカ種、岡山種、中国種、カシュガル種、イスラエル種、ブラジル種等があります。

用途・効用

  • 生花、ドライフラワー(観賞用)
  • 干紅花(薬用、嗜好品、茶、酒)
  • 紅色素(着色剤、化粧用、染用、薬用、美術用)
  • 黄色素(着色剤、染用、美術用)
  • 紅花油(食用、薬用、塗料、紅花墨)
  • 絞り粕(肥料、飼料)
  • 食用、茶
  • 茶、飼料

紅花の花弁に含まれる色素には水に溶けるサフロールイエロー(黄色)と水に溶けないカルタミン(紅色)があり、ともに染料とされます。

純度の高いカルタミンを口紅としてぬれば、唇の荒れを防ぎ血行をよくし、紅で染めた布を肌につけると体が温まるというので腹巻き・たび・ゆもじ・腹帯に使用しました。出羽三山参りの行者の腹巻きにも紅花染めが使われたといいますし、冷え性の婦人に薬効があるというので、花を陰干しして煎じて飲んだりしました。

紅花の種子からは、血管壁についたコレステロールを除く働きを持ち、高血圧予防に効果があるとされているリノール酸を含む良質のサフラワー油がとれます。サラダ油・天ぷら油・マーガリン等の食用油として使われています。また、種子の油を用い、その際に出るすすで紅花墨という上質の墨が作られます。

若い茎葉は上等の野菜となり、花は活花やドライフラワーとして使われます

紅花の育て方

  1. 種蒔き1㎡辺り完熟堆肥4kg、化学肥料100g、苦土石灰700gをめやすに散布します。3月下旬~4月上旬、排水のよい土地に種を1穴に3~4粒まいて、種子がかくれる位土をかけます。
  2. 間引き4月中旬頃から20センチくらいになるまでの間に2~3回間引きをして、1㎡に25本くらいにします(間引きしたものは、おひたしなどにして食べられます)。
  3. 追肥4月下旬から5月下旬に、軽く化学肥料を追肥し土寄せします。
  4. 7月上旬ごろから花が咲きます。花弁が十分に開いたら、切り花にできます。開花して花弁に朱色がさした頃、花弁をつみとり干紅花にします。
  5. ドライフラワー生花を風通しのよい日陰に、雨が当たらないようにして約1ヶ月つるしておけば、きれいなドライフラワーができます。
  6. 種子種子をとるには、花の咲いたまま栽培をつづけ、枯れあがってから脱粒します。

染料の種類

天然染料と化学染料があるが、化学染料は19世紀に発明されたもので、わが国への輸入は幕末と伝えられ、アニリン染めと呼ばれていました。取り扱いが簡単でしかも色相の多い化学染料の発明は画期的な出来事で、たちまち、紅花も含め植物性染料の世界を侵してしまいました。しかし、化学染料にはない色相の深みと、長年用いられてきた技術の伝統的な落ち着きをもった天然染料は、その後、その美しさが見直され、本物を愛する人々にもてはやされています。

植物染料には、植物そのものが染料となるものと、種々工作して染料になるものとがあります。原料も、葉・茎・幹・皮・花・実・根と染料をふくんでいる部分が違っており、また色素も、直接染料と媒染染料があり、媒染剤によっていろいろ変化します。

紅花(花)・蘇芳(すおう)(木)・茜(根)
黄蘗(きはだ)(木皮)・狩安(かりやす)(茎・葉・根)・鬱金(うこん)(根茎)・山梔子(くちなし)(実)・紅花
藍(葉・茎)・露草(花)
紫草(根)
茶・黒 橡(つるばみ)(樹皮・根皮・実のへた)・檳榔樹(びんろうじゅ)(実)

紅花染の技法

陽光に色褪せやすく移ろいやすい紅の色、そしてやわらかい暖かみのある優雅な紅の色。紅花は赤色と黄色の色素を含んでいます。

きれいな紅色に染めるには、水で溶ける黄色をできるだけ取り除きます。赤の色素は木綿・絹が非常に良く染まりますが、黄の色素は絹には染まりにくい性質です。絹・麻・木綿などの材質によって、濃染めの紅から桃色・黄色などに染まります。

紅花の黄色の染料で染めます。
淡紅 紅花の紅色の染料で一回染めます。
濃紅 紅花の紅色の染料で数回重ね染めします。
オレンジ 紅色の染料で数回重ね染めし、その上に黄はだを上掛けします。(紅染めの色止めに使われます。)
ローズ 紅色で下染めをし、栗のいがの染液をうすめたもので上染めし、銅媒染で仕上げます。
あずき色 紅色で下染めをし、栗のいがの染液をうすめたもので上染めし、銅媒染で仕上げます。
グリーン 紅色の黄色で下染めをし、藍で上染めします。
二藍
(ふたあい)
紅花(呉藍)の紅色の上に藍で上染めします。
朱華(はねず)
黄丹(おうに)
くちなしや、うこんで下染めをし、濃い紅色を掛け合わせます。
檳榔樹黒
(びんろうじゅくろ)
(紅下檳榔樹)
紅で下染めし、檳榔樹と五倍子(ふし)の煎汁を配合して引き染めし、鉄塩で黒く発色します。

誰にでもできる紅花染

  1. 花びらを摘む(花の色が黄色から山吹色に変わり、朱色が指した頃)。
  2. 水あらいする。
  3. 軽く絞ってビニールの袋に入れて密封する。
  4. 一昼夜のちに取り出し、すり鉢ですりつぶす。
  5. すりつぶした花を固く絞って銭状にし、一週間から十日間、風通しのよい日陰で乾燥させる。これを紅餅という。
  6. 紅餅(染める布の量と同量の紅餅が必要)を木綿の袋に入れて一昼夜水出しする。
  7. 一昼夜過ぎると水が黄色になる。漬けこんだ袋をしぼって、取り出す。この最初の黄色の液が黄汁染の染料となる。
  8. 再度水を取り替えて、5時間ぐらい漬けこみ、もみ出して、絞り出す。これを1日、3回繰り返す。
  9. 番の工程を黄色の液が出なくなるまで一週間ぐらい繰り返す。
  10. 薬局で市販している炭酸カリの8%の溶液を作り、先程の袋をつけこむ。
  11. 10分毎にもみ出し、30分後に絞る。
  12. また新しい炭酸カリ8%溶液に11番の工程を繰り返す。
  13. 12番の工程をもう一度繰り返し、都合3回分の液を作る。
  14. 3回作った液を一緒にする。これが、紅染をする紅汁の染料である。
  15. 染める布を水に漬けて、かるく絞る。
  16. その布を先程作った染料に浸して染め始める。
  17. 5分後に薬局で市販しているクエン酸の10%溶液を湯呑み茶碗一杯分作り、染めている布を取り除いてから少量(杯2杯)ずつ入れて布を浸す。
  18. 17番の工程を湯呑み茶碗一杯分のクエン酸がなくなるまで繰り返す(少量ずつ入れるのはムラ染めを防ぐためである)。
  19. 漬けっぱなしにしないで、時々動かしながら染めるのがコツ。
  20. 赤色の液が黄色に変わってきたら、布を取り出す。
  21. 新たにクエン酸10%溶液を布が浸かるくらいの量だけ作り、10分間漬けこんで色止めする。
  22. 布を取り出して水洗いをし、陰干しする。

紅粉の精製法

  1. 紅餅をきざんで、一晩水に浸す。木綿の袋に入れ、よく揉んで黄汁を洗い捨てる。
  2. ザルに移し、灰水(あくみず)をかけ、紅汁を取り出す。紅汁に梅酢を加え紅を発色させる。
  3. 青苧布(あおそぬの)を紅汁に浸し、浸し染めと手絞りを何度も繰り返し紅を布に付着させる。
  4. 紅が付着した布(これを「ぞく」という)を水洗いして、これに煮えた灰水をかけ、紅の色素をとり出す。
  5. この紅の色素に再び梅酢を加え、絹布を敷いた紅舟に流し込む。
  6. これを何回もくりかえし、絹布に沈殿した紅をすくい、瀬戸の容器(紅皿)に集める。

紅花酒の作り方

  1. ホワイトリカー(ドライ35)1.8リットルに紅餅5袋と中ざらめ砂糖500gを広口のビンに入れ密封して20日間ねかす。
  2. 砂糖をとかすため1日1回ビンを振りまぜるとよい。
  3. 20日間が過ぎたら、広口のビンに木綿で漉しながら、花びらを取り除く。
  4. 冷蔵庫に入れて冷やして10日間ねかす。冷やさないと色がぬける。
  5. 10日間ぐらいねかすと飲みごろになるが、そのままか、タンサンで割って飲む。
効用血圧・胃腸・婦人病・神経痛等数多くの効用があるとされている
最上川とべに花物語

紅花交易

このようにして生産された紅花は、京都や大阪へ移出されました。寛文年間(1661~1673)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大坂への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店(だな)や谷地店(だな)と呼ばれる、いわば出張店を持つようになりました。当地方物産である米・紅花・大豆・青苧(あおそ)・漆・まわた・油などを移出した、その帰り荷として、関西方面から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入され、現在貴重な文化財として町内に数多く保存されています。

紅花のまち河北町

町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。町には、天正年間(1573~1592)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789~1801)ごろから安政年間(1854~1860)あたりまでは、いわゆる最上千駄の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。紅花は中国から渡来し、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。このように、紅花は岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。この町に最盛期には20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早やサンベと呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市に次ぐ紅花の一大集散地でありました。

紅花を見守る紅花地蔵

蔵王連峰をのぞむ上山城下。二日町というところに、高さ50センチほどの小さな地蔵様がありました。紅花の季節になるときまって近郊近在から大勢の参詣人がやってきて、お札をいただいていきます。紅花畑にこのお札を立てておくと、茎が折れる病気から紅花を守ってくれるというのです。人々はこの地蔵様を紅花地蔵とよんで大切に祀り、紅花のすこやかな生育を祈り、あわせて五穀の豊饒を願ったのでした。(殖産銀行発行「紅花」より引用)

官位十二階制の色彩

官位十二階の制度は、推古天皇11年(603)12月に聖徳太子が創案したものといわれます。この制度は、色の異なる冠を用い、朝廷における席次を定める制度です。その順次を十二階にわけ、名称は、大小の徳・礼・信・義・智でこれにそれぞれ紫・青・赤・黄・白・黒に染めた冠をあてています。(ものと人間の文化史、「いろ」より)

紅花大尽と文化の道

紅花大尽といわれた尾花沢の豪商鈴木八右衛門には、つぎのようなエピソードがあります。江戸時代の元禄の頃のこと、最上の豪商が紅花の荷を江戸に送り出しました。ところが、江戸の商人たちの不買同盟にあい、荷は宙に浮いてしまいました。そのとき彼は、それではと品川の浜でその荷を焼いてしまったのです(実は紅殻を塗りこんだ古綿荷か鉋屑のようなものだったのです)。それが知れわたるとたちまち紅花の値はハネあがり、それをまって本物の紅花を売って大金を手に入れた彼は、かの吉原の大門を閉めきって豪遊したのです。噂は江戸の巷に流れ、さすがの江戸っ子も紅花商人のきっぷのよさに舌を巻き、吉原では「最上衆なら粗末にならぬ、敷いて寝るよな札くれる」などと唄われたともいいます。紅花商人に対する金融・商社的な役割を果たして産をなした尾花沢の豪商鈴木八右衛門を人よんで紅花大尽といいます。もちろん、この話は伝説です。最上紅花は主として京・大坂に積み出されていたもので、江戸にはそれだけ大量の物が送られてはいなかったとするのが通説です。けれど、紅花商いによる最上商人の繁盛ぶりはよく伝えられています。江戸で名をあげた鈴木八右衛門は、清風として俳諧に親しんだ人でもあり、俳聖芭蕉とも交流がありました。芭蕉は奥の細道の途中、尾花沢の清風のもとに十日間も滞在し、区会を開いたり、山寺に遊んだりしています。今、尾花沢の芭蕉・清風歴史記念館には当時の資料が保存されていますが、多くの紅花商人が同じように上方文化や江戸文化をふるさとに持ちこみました。紅花流通の道は、いわば《文化の道》でもあったのです。(殖産銀行発行「紅花」より引用)

紅花関係年表

紀元 / 西暦 できごと
延長5年(927年) 「延喜式」に紅花上納の記事あるも出羽国では貢納の義務なし
天正頃年(157年3~) 河北地方に紅花栽培拡大される(安楽寺文書)
天正5年(1577年) 織田信長、名馬献上の返礼として谷地城主白鳥十郎に紅50斤を贈った
寛文12年(1672年) 西廻り航路で羽州御城米船が酒田を出航
延宝8年(1680年) 紅花の帰り船佐渡沖で難破、慈眼寺本尊行方不明となる(慈眼寺文書)
天和2年(1682年) 京都の紅問屋「稲荷講」を組織する
天和3年(1683年) 友禅染めの小袖京都で流行、女性の衣服制限令出される
元禄2年(1689年) 芭蕉「奥の細道」行脚
元禄12年(1699年) 紅花 芭蕉「奥の細道」記事、この年より記入される(大町念仏講帳)
元禄16年(1703年) 大石田河岸が栄え、舟数264になる、友禅染流行
正徳元年(1711年) 紅染下地、この頃より土産につかわれる
享保元年(1716年) 雨不足、紅花高値、北口市公認なる、享保の改革はじまる
享保4年(1719年) 大雨、大洪水、破船つづく、紅花駄不足故に高値となる80両
享保7年(1722年) 紅花京商い高値、商人利益多し、倹約令出る
享保10年(1725年) 5月大洪水、紅花駄数不足400駄ぐらい
享保14年(1729年) 大日照り、紅花不足、農民商人迷惑する
享保15年(1730年) 「名物紅の袖」記される
享保18年(1733年) 湯殿山縁年参り賑わう
享保20年(1735年) 幕府が紅問屋(稲荷講)を公認、産地直扱い禁止される
元文3年(1738年) 紅花問屋から荷主あてに品質低下の苦情申し入れあり
元文5年(1740年) 柊屋甚右衛門ら代表6人が、京都所司代に対し稲荷講を訴訟するが、判決くだらず
寛保元年(1741年) 紅粉屋へ現金直売仰付けられる
宝暦2年(1752年) 谷地の久兵衛、儀兵衛ら「紅花売買場所」を京都に設立する運動を起こす。紅花上作、谷地郷豊作、京着50両
宝暦5年(1755年) 谷地郷より340~350ほど生産、大凶作庶民飢えに苦しむ
明和2年(1765年) 京紅花問屋の専売崩れ、最上紅花高値となり百姓喜ぶ。この頃『風流松の木枕』記される
明和3年(1766年) 6月29日、紅花積み船転覆、11人死亡する
安永元年(1772年) 京紅花問屋、紅花売買の独占権幕府に願い出る
天明8年(1788年) 古川古松軒「東遊雑記」を記す
天明9年(1789年) 家具・紅染衣服・道具の贅沢禁止令出る
享和元年(1801年) 照り勝ちにて紅花不作、上方不景気、商人弱る
享和2年(1802年) 天候不順、紅花船能登沖にて破船、谷地商人損害甚大となる
文化3年(1806年) 5月大洪水、紅花流され駄数不足する
文化5年(1808年) 干花下落し、残花多く、最上一統迷惑する
文政5年(1822年) 後沢の太田幾右衛門に伏見宮より紅餅のご用命あり
文政7年(1824年) 日照りつづき、紅花2度蒔付け、紅花不景気、庶民難儀する
天保元年(1830年) 洪水にて紅花不作、畑作は虫付く
天保4年(1833年) 大飢饉諸人飢える、紅花不作、紅花種の他国出荷を禁止する
天保7年(1836年) 住吉大社に紅花荷主、紅花問屋によって紅花燈籠寄進される
天保11年(1840年) 越後今町沖にて2船破船、山形商人被害多し
天保12年(1841年) 天保の改革はじまる
天保13年(1842年) 最上川航行制限解除、谷地河岸賑わう。荒町村大火紅花商人によって神明宮再建される。
嘉永6年(1853年) 本木林兵衛・藩州姫路の商人達、下槙白山神社に石籠を建立する。紅花資料館の武者蔵を建立する
安政元年(1854年) 紅花資料館の座敷蔵の襖絵描かれる
安政2年(1855年) 8月若狭沖にて紅花船破船、谷地・山形商人被害受ける
安政3年(1856年) 紅商人によって定林寺に五百羅漢寄進される
安政6年(1859年) 安政の開国条約結ばれ、外国産紅花輸入される
文久3年(1863年) 紅花旱(ひでり)損により不作 紅花摘み日記書きはじめる。紅花資料館の御朱印蔵建立する
元治元年(1864年) 紅花並作京都大火につき、紅花高値となる
慶応2年(1866年) 谷地大火 大洪水、紅花流される 沢畑刀作り盛んになる
明治8年(1875年) 大洪水、最上川通り紅花流され百姓弱る 新桑植栽はじまる
明治10年(1877年) 「第1回国内勧業博覧会」に紅花を県として出品する
明治14年(1881年) この年より紅花相場の記録なし
明治22年(1899年) 皇太神宮遷宮式に先代岩渕栄治が紅餅を納入する
明治41年(1908年) 皇太神宮遷宮式に高島屋を経て岩渕店にご用命があり紅餅を納入する
大正5年(1916年) 新紅花摘み唄流行する
大正9年(1920年) 明治神宮遷宮式に岩渕店が紅餅を納入する
昭和3年(1928年) 天皇御即位式に高田装束店を経て出羽村農会が紅餅を納入する
昭和4年(1929年) 皇太神宮遷宮式に高田装束店が紅餅を納入する
昭和28年(1943年) 皇太神宮遷宮式にご料の足しに(紅花を)納入する
昭和40年(1965年) 山形県紅花生産組合連合会が設立される
昭和55年(1980年) 『べに花の里・かほく』を標榜する
昭和59年(1984年) 紅花資料館開館する
昭和61年(1986年) 紅の館完成する

紅のことわざ

紅は園生そのうに植えても隠れなし
大成する人物は子どもの時から常人と違って優れた素質が認められるの意
柳は緑花は紅
天地自然のあるがままで、人工の加わらぬさま
万緑叢中紅一点
多くの男性の中にただ一人女性がまじっているたとえ
薬九層倍花八層倍
売値が原価にくらべて非常に高いこと
尼御前の紅
不似合いなことのたとえ
あかがり足に紅絹裏もみうら
紅絹裏をちらつかせて歩く女性の素足にあかぎれが切れていること、不似合いで艶消しな取り合わせをいう
江戸の紅絹裏難波の紫都の黄無垢きむく
それぞれの地では流行おくれの衣服とされたところから、古びて流行おくれのもののたとえ
江戸紫に京鹿子かのこ
紅染は京都の名産、紫は江戸の銘物である。江戸時代の東西両都の染色の特徴をいうことば
くれないは染むるに色を増す
紅の染色は、最初は色薄く何回も繰りかえし染めて濃くすることから繰りかえし努力することが大切であるということ
女は華丹かたん窈窕ようちょうを乱すをにくむ
華丹はおしろいや紅の意、お化粧も過ぎると逆効果になる
人に千日の好無く花に百日の紅無し
人の親しい交際も花の盛りと同様に長続きしないものだ
宝剣は烈士に贈り紅粉は佳人に贈る
宝として大切にしている剣は勇士に贈り、紅とおしろいは美人に贈る。物を贈るに当を得ていることのたとえ
紅葉もみじに置けば紅の露
環境によって外観の変わることのたとえ
木綿布子に紅絹もみの裏
粗末な木綿の綿入れに豪華な紅染の絹をつけること。つり合わないことのたとえ。また外見より内実がすぐれていることのたとえ
寒中の丑の日に買った紅は薬になる
寒中に作られた紅は品質がよいうえ口中の荒れを防ぐ。丑の日に買うと小児の疱瘡に薬効があるという
売り物に紅をさせ(花を飾れ)
売る品物は美しく見せよ
紅白粉は女のたしなみ
紅や白粉で化粧することは女として大切な心がけの一つである
誰に見しょとて紅鉄漿べにかねつける
みんな主への心中立て。誰に見せるために化粧をするものでもありません。それは皆すべていとしいあなたへのまごころを示すためなのです
昔馴染むかしなじみ紅花染め(紅花色)
色がさめてもきが残る。昔馴れ親しんだ人はいつになっても気になって忘れることができない
千入(ちしお)に染むる紅(くれない)も
染むるによりて色を増す。よいものでもさらに心をくばりみがきをかけてすぐれたものにすべきである
霜葉は二月の花よりも紅(くれない)なり
霜のために変色した紅葉は二月の花よりも赤くて美しい
朝紫に夕紅ゆうくれない
朝は紫色に見え夕方は紅色に見える遠い山の美しさをいったことば
あした紅顔こうがんありて
夕べに白骨となる。人生の生死のはかり知れないこと。世の無常なこと
紅顔こうがんの美少年
若々しく生々とした血色の美少年
花染めの移ろい易き人心
草木染めは変色し易いことから、人の心のうつろい変わりやすいこと
紅網代べにあじろ
かごかき棒が紅花の染料を塗ってある網代かご。大奥にいる御年寄りが御台所の代参などで寺院などに参拝するときに乗る
紅茶宇べにちゃう
ポルトガル人がもたらしたインド産の薄地琥珀織の紅色の絹。袴や裃を作った
来迎の柱は金箔女の湯具は緋縮緬
何事も道具立てがよくないと立派に見えない
緋縮緬虎の皮より恐ろしい
緋縮緬は商売女の腰巻きに、虎の皮は鬼のふんどしに用いられたところから、商売女は鬼より恐ろしい

山形地方の京ことば

紅花船の帰り荷として、上方の紅染衣装や雛人形などが、酒田から最上川をさかのぼって、当地の人々の暮らしを豊かにしました。これらの品々とともに、「京ことば」も移入されました。最上川は交易の道であり、文化の道でもあったのです。
アッチャコッチャ
あべこべ、さかさま、反対 アッチャコッチャ
アンジュ
尼僧、尼さん アンジュ、アンジョ
イシナゴ
小石、砂利 イシナゴ、イシナンコ
インキョ
離れ座敷、分家 インキョ、エンキョ
ウルカス
水に浸して水分を吸収させる ウルカス
オーキニ
たいそう、ありがとう オーキニ
オシズカニ
別れるときのあいさつ オスズガニ
オツケ
お汁 オヅゲ
オバンデス
晩のあいさつ オバンニナッタナシ
カッチャイ
裏返し、さかさま カッチャエ、カッチャ
カタマエサガリ
着物の左右の裾が揃わぬさま カタマエサガリ
カナ
木綿糸 カナ、カンナ
カマス
刻みタバコを入れる袋 カマス
クチベラ
クチベラ、クチビラ
ゴショイモ
じゃがいも ゴショイモ、ゴショーイモ
ゴモクタ
ごみ、もくた ゴンモクタ
コンニャ
今夜 コンニャ
サカイ
理由をあらわす「から サゲ、サゲテ、ハケ
シナコイ
柔軟な、しなやかな シナコイ、スナコイ
シマツ
節約、倹約 シマツ、スマヅ
シミル
凍みる シミル、スミル
シャル
~なさる シャル
センド
先日、以前 センド、センドナ
ゾーヨー
雑多な費用、雑費 ゾーヨ
タズク
つかまる、しがみつく タズグ、タグヅグ
ツッパリ
心張り棒、つっかい棒 ツッパリ、ツッパリボー
ツルツル
うどん、そうめん ツルツル、ツォロツォロ
テンコモリ
山盛り テンコモリ
ドーブク
綿入り羽織 ドーブク、ドンブク
トノグチ
家の入り口 トノグツ
ナガチョロイ
細長い ナガチョロイ、ナガペロエ
ニギニギ
握飯の幼児語 ニギニギ、ニキニキ
ネッカラ
全然、一向に もともと、ネッカラ
ノー
終助詞「ね」 ノー
ハヤス
野菜などを細かく刻む ハヤス
ヒボ
ヒボ、シボ
ヘゲル
はがれる、はがれ落ちる ヘゲル、ヘガレル
ベチャコイ
平ったい、平べったい ニペッタラコイ
ボウ
追う、追いかける ボウ
ホーケル
惚ける、もうろくする ホーケル、ホロケル
ホコエル
草などが成長する ホゲル、ホキル、ホギル
ホダレ
つらら ボーダラ、ボンダラ、ボンガラ
ホンニ
本当に ホンニ、ホニ
ボンノクソ
盆の窪 ボンノクド、ボンヌグド
マクレル
倒れる、転げ落ちる マクレル
参考文献 井之口有一
堀井令以知「京ことば辞典」東京堂出版 1992年
山形県方言研究会「山形県方言辞典」1970年