Loading ... WeDOK

河北町の名所・旧跡

河北町の数々の名所・旧跡をご案内いたします。

お月山遺跡おつきやまいせき
谷地西部・北谷地地区

沢畑集落の南西に小高い丘があり、頂上近くに月山神社がまつられています。その境内(けいだい)周辺で土器片や石器が採集できることは、古くから知られていました。遺跡としての姿を探るために、昭和29年山形大学の柏倉教授により発掘調査が行われました。その結果、神社の南西の畑地から、二つの石囲炉(いしがこいろ)をもち直径4メートル前後のゆがんだ円形を示す竪穴(たてあな)住居跡(じゅうきょあと)が検出されました。また、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)・石匙(いしさじ)・石箆(いしべら)など多くの石器類と、隆起線(りゅうきせん)による渦巻(うずまき)文様(もんよう)や立体的な造形の口縁部(こうえんぶ)をもつ土器の破片、土偶(どぐう)の頭部などが出土しました。これらの特徴から、縄文時代中期の中頃から後半(約4500~4000年前頃)の遺跡だということが明らかになりました。当時の人の目で遺跡から周囲を見渡してみましょう。西には山地が重なり、春には山菜、秋には木の実やきのこを豊富に提供してくれます。野生動物も多かったはずです。近くには滝ノ沢川が流れ、東方に足をのばせば最上川があります。四季をとおして自然の幸(さち)に恵まれ、住みやすさ抜群の一等地だったといえます。

お月山遺跡
金谷庵きんこくあん
谷地西部・北谷地地区

定林寺の二十二世住職であった仙外耕雲和尚が、江戸時代の中頃、紅花資料館の西隣り高台に金谷庵を建立しました。金谷庵の名は付近の地名からつけられたようです。定林寺は享保2年(1717)に沢畑杉山から谷地中楯に移築されましたが、金谷庵はその後、村民の念仏道場として一層の信仰を集め、境内に百万遍供養塔や法華千部供養塔などが建つようになりました。初め金谷庵を支えたのは、定林寺とその檀徒総代の北口細矢家でしたが、僧雲岫(うんしゅう)がいた安永年間(1772~80)には、田地も寄進され、経済的に豊かになったように思われます。その後は次第に堀米四郎兵衛家との結びつきを深めることになります。嘉永5年(1852)10月、堀米家は金谷庵地内を永小作同様、勝手に相用いることができるようになり、その上金10両を請取り、以後金谷庵の修覆一切を堀米家が行なうことを、定林寺に約束しています。そして翌11月には、金谷庵に附属する屋敷を金25両で堀米家に譲渡し、その金を定林寺の再建費用の一部として貯えることにしたのです。こうして金谷庵は堀米家の支援のもと、念仏講や地蔵講の場として村民に親しまれ、金谷の晩鐘は沢畑の風物詩の一つに数えられるようになりました。雪が消える3月には、再びあの千願経の仏事が巡ってきて、春の喜びの中に世の平安を願う読誦が続くのです。

弥勒寺の追分石みろくじのおいわけいし

追分石とは、街道の分かれ道に建てられた石の道標のことで、旅する人びとの道案内の役目を果たしてきました。時代が流れ、道路拡張等で行方不明になったり、心ない人に持ち去られたりして姿を消した追分石も少なくありませんが、本町内に現在6個(1個は兼休石)確認されます。弥勒寺の追分石もその一つで、所岡―弥勒寺線を西へ進み、弥勒院傍の十字路からおよそ600メートルの、山口と下沢畑北を結ぶ道と交差する所に鎮座しています。高さ70センチ、横巾50センチ程の自然石に、「右公王んおん左や満みち」と刻まれています。「右に行くと最上三十三観音札所岩木観音堂の前に出る。左に行くと山道に入る。」ということで、町営野球場のある山に入ることになります。その昔、根岸街道ができるまでは、岩木から日和田に行くには土入―両所を通るこの道路がいわば公道でした。巡礼者が道に迷わないようにと作られたこの追分石が、いつ、だれによって建立されたのか分かっていません。

三篋塔さんきょうとう

弥勒寺の北西に「三篋塔」という三基の五輪塔がある。古来、義経の忠臣佐藤継信一族の墓と伝えられてきたが、生活に追われた戦後は荒れ放題になっていた。その荒廃を嘆いた弥勒院の月光祐浄は、寄進20余万円を投じて昭和38年見事に復興した。三篋塔の右には「遠き世の三筐塔や花供養」と刻んだ名和三幹竹の句碑、左に山形県史編纂委員平沢東貫撰文になる三筐の碑がある。碑文には「三筐の名称から考えて、ここはもと経塚であったと思われる。現に経石が続々掘り出されていることは之を証拠だてている。それが幾百年もの長い間佐藤継信、忠信兄弟やその一門の為の供養塔と信ぜられ語りつがれて今日に及んでいる。佐藤兄弟の純忠壮烈は後の世までも賛えられ、又その遺族の悲しみを共にして冥福を祈る心は世界平和の悲願にも通ずるものである。苔むす石塔にまつわる史実の如何はともかくとして伝承の跡は永く保存しておきたいものである」とある。裏面には、真言宗智山派管長秋山祐雅が戒名を謹書し、名工松沢辰蔵が精魂こめて刻んでいる。これは河北町の宝であり、一見すべき石造物である。この史跡については鈴木勲氏が「西村山地域史研究会報第24号」に、きわめて要領よく紹介しておられる。

岩木観音堂いわきかんのんどう慈眼院じげんいん
[谷地西部・北谷地地区]

「右公王んおん、左や満みち」と刻まれた弥勒寺の追分石を右に辿り、約700メートル進むと岩木観音堂の門前に着く。参道を上ると、うっそうと茂った木立の中にお堂が建っている。この観音堂は、嘉慶元年(1387年)に岩木村の教円坊によって開かれた。教円坊は元来、きこりであったが、路傍に埋もれていた木像の観音を持ち帰って信仰し、岩木山腹の浄地を選んで観音堂を建立したといわれる。仏像は仏師「運慶」の作で、霊夢を感じた運慶が神樹を伐り、一刀三礼して丈一尺八寸(約55センチメートル)の観音像を彫刻したものと伝えられている。今の岩木観音堂は平成21年(2009年)に建て替えられた。別当の慈眼院は、もと慧日山浄聖寺普門院とも称され、天台宗葉山大円院を本寺としていた。境内には青苧権現・地蔵堂・稲荷堂・不動明王堂などの諸堂もあり、最上三十三観音巡礼第十八番の札所となっている。旧正月には町内外から多くの参拝者が訪れ賑わう。

青苧権現あおそごんげん
[谷地西部・北谷地地区]

青苧は江戸時代の庶民の衣料原料でした。土の肥えた畑を選び、八十八夜頃(五月一日、二日)に種を蒔き、お盆に刈りとり、糸にして売り出しました。奈良晒(さらし)・越後縮(ちぢみ)・近江蚊帳(かや)は特産物として全国に名高いが、その原料は最上の青苧でした。白鷹山地や月布川流域それに五百川地方が良質な青苧を産出しましたが、河北では両所・ 天満・白山堂から根際・沢畑・弥勒寺・北谷地の岩木・吉田・新吉田など、出羽山地の麓に青苧畑が広がっていました。青苧権現の石碑は、これらの村々の青苧栽培農家が、風水害・虫害にあうことなく豊作であることを願って建立したもので、草木塔の一種といってもよい・青苧大権現・青麻宮・青麻三光宮などと自然石に刻まれ社寺の境内に祀られていますが、岩木の青苧権現は観音様の前のお堂の中に納まっています。特に大切にされたものであると思われます。江戸時代、実生活に有用な草木を三草四木と呼びました。三草は麻(青苧)・紅花・藍、四木は桑・茶・楮(こうぞ)・漆でした。これらはいずれも商品作物として農家に現金収入をもたらしましたが、河北地方で青苧商人として知られたのは沢畑の宇野仁左衛門、横町の平泉長三郎らで、二人は共同で荷問屋を営み奈良の小手屋長右衛門と取り引きを行っていました。

補陀落山三十三観音ふだらくさんさんじゅうさんかんのん
[谷地西部・北谷地地区]

弥勒寺公園野球場の南側に西国三十三観音の石仏があります。これらは嘉永元年(1848)谷地大町の和田孝四郎氏(八代幸右衛門氏)の発願により建立されたもので、もとは沢畑山の東斜面の補陀落山に西国三十三所、西側の仏生山に四国八十八所霊場を設けたことに由来します。孝四郎氏は、天保十五年(1844)七月から九カ月かけて西国・四国の巡礼を挙行諸方の霊場を巡り、その霊験に感動し「地元で西国や四国の霊場を参詣したと同じような功徳を得られるようにしたい」という一念で、天保十七年(1846)再び巡礼に出かけ、それぞれの霊地から御影絵と土砂を持ち帰りました。そして霊場創設の計画を公表すると、たちどころに石仏の寄進者(講中)が集まり、建立した石仏は両山あわせて一八三体あったということです。寄進者は町内外併せて一六三人にものぼり、四国八十八所や西国三十三所霊場の信仰がそれだけ民間に広がっていたことを表しています。西国三十三観音は、京都、大阪など二府五県に点在、一千年以上の歴史を誇る霊場です。今では飛行機や車を駆使すれば、早くて十日で巡礼可能でしょう。時代は遷っても観音様は、ふるさとの繁栄と町民の生活の安全を見守っていてくれます。

三ツ川一橋みつかわひとつばし
[谷地西部・北谷地地区]

引竜湖を源にして流れる法師川に添って、岩木の道(県道285)を北上すると、家屋がまばらになった所に出、そこを右折し少し下ると、法師川に架かった岩砂橋に出ます。この一帯は河岸段丘特有の地形で、階段状の小高い丘が広がっています。前方にはこんもりと杉小立が見えて、その辺を「三ツ川一橋」と呼んでいます。丘を上がると三叉路に出ますが、そこは河北町と村山市の境界で、直進すると湯野沢に至ります。右折して岩枝地区に50メートルほど進むと、岩砂橋から見た杉小立が右にあり、中に二つの碑が見えます。一つは4メートルを越す堂々とした「新田開墾記念碑」で、並んで建っているのが「耕地整理記念碑」と刻まれた2メートルに満たない碑で、昭和7年に建立されたものです。昔、法師川は三筋に分かれて流れていました。源義経がここにさしかかった時、弁慶が一行を渡すため、大石を担ぎ三本に流れているところに落として橋を架けたと言われ、「三ツ川一橋」と呼ばれる由縁です。その時担いだ石に弁慶の手の跡が残ったと言われており、「耕地整理記念碑」という、小さな方の碑の台座になっているのがその石だと語りつがれています。

吉田市神よしだいちがみ
[谷地西部・北谷地地区]

河北町には九基の市神が祭られており、その数の多さや市神が今日なお町民の生活に生きていることから「市神のひしめく町」として、全国に紹介されています。市神は本来、市が開かれる場所の目印として置かれた素朴な自然石でそのほとんどが無銘です。河北町には九基の市神が祭られており、その数の多さや市神が今日なお町民の生活に生きていることから「市神のひしめく町」として、全国に紹介されています。市神は本来、市が開かれる場所の目印として置かれた素朴な自然石でそのほとんどが無銘です。吉田の市神は、吉田地区旧街道のほぼ中央の路傍に立っています。白鳥十郎が谷地築城の時に設けた北口の市が、その後新庄藩から町方に指定され、最上川舟運の物資の供給所となって栄えてから、吉田の市は自然に衰微し、天明年間(1781~1989)に市場を北口に譲り渡したと言われています。譲り渡しの理由について、北谷地村史では「市の日に悪者共四方より集まり賭博をし、家内の留守に盗賊を働くものが多きに依るものなり」とあります。吉田市神に限らず、残された多くの市神は現在も、かつての市場の面影を残す道路の片隅や近くの氏神の境内などにひっそりと祭られ、地域の人々の信仰を集めて静かに立っています。

夜泣き地蔵よなきじぞう
[谷地中部・谷地南部地区]

土慶小路の中ほどに「夜泣き地蔵」という北向きのお堂がある。小児の夜泣きに効くというので、この名がある。日本では北向きのお堂が珍しいので、祭神は古志王神と考えられている。古志王神は、伊勢系や出雲系の神と全く別系の神で、古代の日本に帰化した越人の神である。越人は大陸から渡来して、北陸地方に住みつき、のちに越前・越中・越後の三つに分かれた。この夜泣き地蔵の本尊は、彩色された石の地蔵様で、口もとに紅をさした柔和な顔立ちである。その外、こぶし大の古い木彫二体があり、由来はきわめて古いというが、口伝のみで記録はない。古来古志王神は「北向き薬師」「聞き耳地蔵」などと呼ばれ、耳疾や厄落としの御利益があると信じられ、孔のあいた麸や小石を奉納している。今もお堂の正面の羽目板に50個にのぼる孔あき石が下げてある。狭い敷地には、湯殿山碑のほか、百萬遍供養塔が二基建っている。明和7年と文久年間に建てられたが、銘を見ると、村内の講中が「天下泰平・村中安全」を祈願しての建立である。あいつぐ大飢饉にあえぎつつ、お互いに助けあいながら、村内の平安を祈り続けた信仰深い村だったことがうかがわれる。

金神社かねじんじゃ
[谷地中部・谷地南部地区]

桜町通りの西端、寒河江街道と交叉(さ)するところに、地蔵堂と並んで金神社があります。この付近は古来銅屋口と呼ばれ、中世代中条氏が鍛冶師や鋳物師(いもじ)たちを住まわせた職人町の跡であると言われています。金神社は、もとは今より南方、渋川のほとりに立派な社殿を構えていたと言われています。祭神は、金山をつかさどり、鍛冶の技術や安全の神様とされる金山彦之神(かねやまひこのかみ)と金山姫之神(かねやまひめのかみ)の二神で、鋳物で浮き彫りにされ、板に掛けられています。金神社の創建は定かではないのですが、光明院の綸子写(りんずうつし)(荒町の浦木家に伝わる暦応5年(1342)に発令された鋳物師特許状の写し)や、中条氏の入部などを考えると、鋳物師たちの定住と共に勧請されたようです。拝殿の鰐口には「奉納 谷地櫻町銅口 山形勅許鋳物師佐藤金十郎藤原忠国鋳之 享和2年(1802)壬戌」と陰刻してあります。佐藤金十郎は寛政年中に谷地八幡宮の大鐘を鋳造しているので、完成を報告し、お礼に鰐口を奉納したものと思われます。このことは、天文~慶長期に全盛期を迎え、幾多の名品を残した谷地の銅屋町の活動が終わり、山形では勅許鋳物師たちが梵鐘鋳造などに活躍していたことを示していますが、最上氏が谷地の職人を山形に移したので、谷地鋳物が衰退したという説は定かではありません。

長楽寺の法輪塔ちょうらくじほうりんとう
[谷地中部・谷地南部地区]

境内の左手にある蔵の中に八角形の法輪塔と呼ばれている輪蔵が一棟納められています。輪蔵とは、回転式の書棚がある経蔵のことをいい、中央に八角形の書棚をしつらえて、中心に軸を入れて回転するようにしたもので、一般には禅宗寺院で用いましたが、近世 になると禅宗以外の宗派でも用いるようになったといわれます。観音開きの書棚は厨子(ずし)のように柱・組物などで飾られ、中には鉄眼道光(てつげんどうこう)によって開版された黄檗版一切経(鉄眼版大蔵経)が収められており、たまたま手にとった大宝積経百十二巻末の奥書には「沙門鉄眼募刻 寛文癸丑仲春月 黄檗山宝蔵院識」とありました。棟札によれば、長楽寺壇頭であった澤畑邑(むら)の豪農阿部権内永秀が文久元年(1861)に寄進し、大工は町内南小路居住の宮大工土方嘉七が「法輪棟梁」であると書き記されています。また、経蔵の格天井三十八枚には、石蘭亭(槙五鳳)とその門人・友人14名によって描かれた花鳥図や人物絵も残されており貴重なものです。西里永昌寺に明治初期の洋風建築に名を残した本木勝次郎の手になる輪蔵があります。

長谷寺の槙五鳳の小自在庵碑
[谷地中部・谷地南部地区]

伊藤馨の撰文並びに書になる小自在庵碑の碑文は、恭敬の念篤く、親しみの情がよく与された金石文です。鳳山伊藤馨は酒田の人、儒学を江戸の浅川善庵に師事し、若くして三河国田原藩に儒をもって仕えた駿才です。建碑は五鳳の友人門人等によって計画され、文久元年に親交を得た鳳山に撰文が依頼され、文久二年に建碑、二年後の元治元年四月吉日開眼の式が賑々しく執り行われました。小自在庵は、安政四年頃に家業を長子にまかせた五鳳は宅地の一隅に庵を結び隠遁の自在なくらしに入りました。この庵が石蘭亭小自在庵です。日本の伎芸文芸は師承するものです。俳諧を薫風を尚ぶ鳳朗・祖郷に、絵画を椿椿山に師事しました。西村山地方の文人の中心として、小自在庵は文雅なサロンとなりました。ここに集まる同志や門弟により文壇が形成されていました。これが石蘭社です。江戸の中頃以降、我国古典や清新な文芸の殆どが研究され出版されて、文化文芸のサロンが各地に興り論談風発します。明治維新の基盤が整ったと言えます。

長楽寺梵鐘ちょうらくじぼんしょう
[谷地中部・谷地南部地区]

この梵鐘は、寛文10年(1670)5月山形銅町で鋳造されたものです。山形銅町で作られて現存するものの中では、県内で最も古いものです。制作者は「大工」として峯田甚四郎・佐藤権四郎の名が刻まれています。総高103、口径47センチメートル、爪の大きいのが特色です。さらにこの鐘には、「羽州村山郡北寒河江庄谷地長楽寺宗賢」と陰刻してあります。ところがこの鐘の前に、千秋左兵衛道味という鉱山師が慶安四年(1651)に寄進した鐘があって、これには「出羽国最上郡延沢銀山長楽寺宗堅」と記銘されていました。この梵鐘が破損して、今の鐘にかわったのです。このことは、長楽寺が慶安四年には延沢銀山にあったことを示します。その他の史料で調べてみますと、宗賢(堅)の前の住職祐賢は、石山合戦(1570~1580)に織田信長と戦って、本願寺から褒賞をもらった傑僧でしたが、慶長15年(1610)には、谷地に寺を構えていたことが知られます。この梵鐘は、山形銅町の初期の技術水準を示し、また隆る貴重な歴史資料として、大戦中に鋳つぶされないで残ったものです。

堀口館跡ほりぐちやかたあと
[谷地中部・谷地南部地区]

長表道を進み磐田電工の東側の堤防から眺める最上川の風景は、昭和11年に始まる内務省の河川改修工事によって創られたものである。それ以前の最上川はこの辺りで東に向きを変え、対岸のゴルフ場を越えて第二漁協の北から柳堂稲荷・畜産団地・クリーンピア付近を経て、野鳥の楽園古最上へと大きく蛇行していたのである。堀口館跡 長表道と押切を付け根とした舌状台地が、最上川を東へ押しやっていたといってもよい。三方を最上川に囲まれ、近くに河港もつくれるこの台地は、守るに堅く水運の便にも恵まれており、また、一帯に元屋敷・八幡宮朱印地・抑口などの地名が残っていることなどから、ここに堀口館があったと考えられてきた。それが最上川の改修工事が進むにつれて、およそ八基の五輪塔と墨書銘がある板碑(いたび)が三面、それに石の箱などが発掘されて、堀口館の存在が実証できるようになったのである。堀口館は南北朝時代の終わり十四世紀末に中条備前守が築いたとされている。中条氏はここを足場に、近くの大塚から内楯へと歩を進め、やがて谷地郷全体の領主へと成長していったのである。現在、堀口館跡は最上の川底に沈み往時の栄華を語らないが、時には堤上から堀口館に想い馳せたいものである。

北口陣屋跡(代官所)きたぐちじんや(だいかんしょ)
[谷地中部・谷地南部地区]

北口南、ひな市通り沿いに細谷医院があり。元和八年(1622)7月に、北口村・工藤小路村・吉田村・大久保村など上谷地郷六カ村は新庄藩領となり、藩主藩領となり、藩主戸沢政盛は寛永元年(1624)ここに新庄陣屋を置いて上谷地郷を支配しました。およそ700坪の敷地には、大戸門・役屋・長屋などがあり、代官の外2~3名の手代を配して明治初年まで及んだのですが、幕末の戊辰戦役で庄内藩兵に襲われ、役屋は焼失しました。明治4年(1871)に廃止されるまで、北口陣屋は247年間に及ぶ上谷地郷の行政の本拠でした。明治6年(1873)9月、焼失をまぬがれた長屋を払い下げ改築して、谷地で最も早い小学校が設立され、その名を「開明学校」と呼んでいました。しかし、明治17年(1884)11月、八幡宮東側(現在の役場の所)に「谷地学校」が新築開校されたことに伴い、開明学校は廃校となりました。現在、北口陣屋や開明学校等、当時を偲ばせるものは何もありません。区画整理事業も進行中で、時代の変化と共に町並みも又、激しく移り変わろうとしています。

北口市神きたぐちいちがみ
[谷地中部・谷地南部地区]

春のことぶれする雛市。繁栄を今に伝える北口の市神はもっとも験ある市神だった。平安時代以降の商工業者の発達は、座や株仲間を組織して独占販売権、非課税権、不入権などの特権を形成しつつ、戦国時代には経済的利益が独占され既得権化していました。戦国大名は、これらの特権を排除して強力な領主権の確立を目指すと共に、税の減免をとおして新興の商工業者を育成し、自由取引市場をつくり、座を解散させるなどの経済の活性化策を推し進めました。楽市令、破座の策です。近世の北口村は戸沢藩に属しました。北口は上谷地郷の町方として小店舗の営業と市の開設が行われました。北口の市は2と6の日に、乾物や古着、古布、蔬菜類、薪などが扱われ、大町は5と10の日に、荒町は4と8の日にそれぞれ定期に、または特設に開設され、地方の生活を支えました。それらの市が立つ範囲を示すのが市神で、地蔵堂の市神のように多くは自然石であるのは、その日神招ぎをする市神様の依り代としたからでしょう。

三社宮(谷地城本丸隅)
[谷地中部・谷地南部地区]

内楯とか中楯はかつて城の本丸があったことを示す地名ですが、その東北部(鬼門(きもん))を守るために祭られたのが三社宮とされています。谷地城は中条氏によって弘治年間(1555~1558)頃に築かれ、その後、白鳥十郎が引き継ぎ拡張整備を重ね、天正十年(1582)頃には内楯の本丸を中心に二重の堀と土塁(どるい)を巡らす堅固な平城(ひらじろ)ができたと考えられています。本丸の大きさは「工藤弥次右衛門手控(てびかえ)」に書かれており、東西約110メートル、南北に約240メートルの南北に細長い長方形であったことがわかります。三社宮はこの谷地城の名残を示す土塁(現在の高さ2.3メートル、幅20メートル)上に鎮座し、境内には樹齢百年ともいわれる大銀杏(いちょう)や谷地城内の庭石とされる赤石(鎌倉石)が残り、昔の面影を今に伝えています。それにしても三社宮とはどんな意味でしょうか。熊野三山に由来しているとされていますが、御神体(実は御本尊で)は聖観音・勢至観音・弁財天の三体であると縁起は記しています。私は三山信仰と観音信仰が盛んになるにつれて、いつしか三社宮と呼ばれるようになったのではないか。その意味で大正十五年(1926)に建てられた標柱の「三社宮観音堂」が、人々の信仰心を最もよく表していると思うのです。

三社宮(谷地城本丸隅)|河北町観光なび
長延寺の板碑ちょうえんじのいたひ
[谷地中部・谷地南部地区]

大町通りの少し北奥に、一向上人ゆかりの時宗金湛山(きんたんざん)長延寺がある。参道に沿って清らかな川が流れ、石門柱を過ぎると老松を笠に地蔵堂が建つなど、その風情は念仏道場にふさわしく心休まる。長延寺は鎌倉時代の永仁(えいにん)元年(1293)3月、極阿(ごくあ)上人により開かれた古刹(こさつ)であり、今日まで700余年の歴史を誇る。その足跡を見守り続けてきたのが、本堂左手前に鎮(しず)まる板碑(板石でできた塔婆(とば))である。板碑の石質はもろい凝灰岩(ぎょうかいがん)であるため風化が進んでいるが、キリーク(弥陀)の種子(しゅじ)が刻まれ、明治末年頃までには永享(えいきょう)5年(1433)と、室町時代初期の年号が読みとれたといわれる。高さ159センチ、上幅42センチ、基部幅49センチ、厚さ24センチ、額部の張り出し3センチ、頭頂部は肉髻(にくけい)形(頭頂のもとどり)をなし、本寺の天童仏向寺板碑の流れを汲み、堂々とした風格を備えている。板碑は追善供養のために建てられたものであるから、長延寺の板碑は開山極阿上人か、または、その後100年の間に同寺を中興した上人を供養したものと考えられている。現在、板碑は風雨を防ぐ覆いの中で何も語らないが、鎌倉時代以来の阿弥陀信仰の歴史を宿し、私たちを過ぎ去った昔へと誘うのである。

大町観音堂おおまちかんのんどう一夜千日様いちやせんにちさま
[谷地中部・谷地南部地区]

中央通りの十字路から西に五分ほど歩くと、大町観音堂があります。ここに、谷地八幡宮の別当円福寺の末寺である「高円坊」がありました。東西十五間、南北二十間の境内は、除地(免税)でした。縁起は明らかではありませんが、観音堂は高円坊の鎮守として、貞亨年間(1684~1687)に勧請(まつること)されたと推定されています。大町念仏講帳などによると、元禄三年(1690)六月に本尊の再興が図られ、その後寛延二年(1749)7月に堂宇の再建が行われました。御本尊は、銅像十一面観音立像(町指定文化財・・・頭上面を十二面とする珍しい鎌倉時代の作、高さ32.9センチ)です。厨子裏の記録によると、元禄三年、本尊再興の際、大町の高梨安利が発願主となり、紅花商人柴田弥右衛門が取次人となって、厨子とともに京都より求められたものです。二十一年ごとに御開帳される秘仏で、「一夜千日様」と呼ばれ、一晩お参りすると千日の霊験があるとされ、往時には多くの参詣者で賑わい夜店が立ち並んだといいます。 数年前から、昔の賑わいを取り戻そうと、河北町中心街活性化促進協議会と地元の人々の努力が続けられています。祭礼は、8月9日です。なお、谷地郷三十三札所の第一番が大町観音堂です。※次の御開帳は2034年です。

松橋まつはし市神いちがみ
[谷地中部・谷地南部地区]

松橋では現在県道天童・河北線の拡幅整備工事が進行中であり、江戸時代以来の西の玄関口の面影が変貌してきています。それに伴って、若宮八幡宮の標柱や鳥居も東に移動し、社殿に続く参道も直線から鍵形に変わりました。その参道の西側には、稲荷堂に並んで三基の石碑が建っています。手前は地上に出ている部分の高さ70センチ、幅65センチ、厚さ48センチのどっしりとした自然石で、これが松橋の市神であり、その先に湯殿山と太神宮が続きます。市神は本来、市が立つ場所の目印であり、市の安全と繁栄を願って祭られたものであるから、昔から若宮八幡宮の境内にあったわけではありません。大町念仏講帳の享保十六年(1731)の記事には「夏米、松橋市で九拾文より九拾五文迠」とあり、明和九年(1772)の松橋村書上帳には「当村に6月2日より同六日迠、日市年々立て来り候」とあるから、今の暦でいえば7月初め、なす・トマト・きゅうりが出る頃に市が開かれていたのは確かです。開かれる時期から、松橋の市をきゅうり市とも呼んでいたようです。一般に市が立った場所には「宿」の地名が残っています。鶴屋醤油店西隣の板坂繁蔵さん宅は、代々中宿の屋号で呼ばれています。この中宿は松橋市の名残を示すものと思われます。

松橋の市神|河北町観光なび
若宮八幡宮わかみやはちまんぐう
[谷地西部・北谷地地区]

谷地八幡宮摂社若宮八幡神社は、幾度かの変遷を経て、明治7年6月15日に現在の松橋の地に遷座されました。祭神は大鷦鷯(おほさざきの)尊(みこと)(仁徳天皇)・誉田(ほむだ)別尊(わけのみこと)(応神天皇)・宇豆(うじの)若郎子(わきいらつこ)三神です。例祭はもと6月15日、今は5月第2日曜日に行っています。若宮八幡の歴史は古く、仁和四年(888)法印宥光が男山八幡宮(京都八幡市)摂社の若宮を勧請し沢畑山に祀ったと伝えられています。それから500年を経た応永三年(1396)に宥光法印十九世の孫とする三蔵坊宥万が下野の地に遷して祭祀するも、三百年を経て宝永二年(1705)に荒町村に介在する松橋村の飛地に仮殿にて遷座。明治七年あらたに社殿を造営し鎮座せられました。百六十年仮殿におはしました。若宮信仰の発生と発達の歴史は複雑で明治以来その信仰史をめぐって諸説行われています。いずれにしても、820年頃宇佐神宮に若宮が創祀され、聖母子神の信仰が現れ、この信仰は、比売神(ひめかみ)、若宮と結び付き民衆に強い支持を受けながら、山岳信仰にも融合していきました。

若宮八幡宮|河北町観光なび
大町市神おおまちいちがみ
[谷地中部・谷地南部地区]

大町の葉山タクシーの車庫前西角にある、しめ縄が巻かれた自然石が大町中組の市神です。市神は元来市場の立つ場所の目印に建てられ、ほとんどが無銘の自然石です。市場を立て、管理監督するのは、立前株を有する立前衆ですが、大町念仏講帳によれば、明和8年(1771)には9人の立前衆がいました。立前衆は、出店地割りの外、喧嘩口論や押売りなどの不正売買の取締りなどを行いました。出店する者は、立前衆に市賃を支払う決まりがありました。商品の主なものは、北海道産の干物・塩物類、京阪地方から仕入れた木綿・古手類、種子や苗木類、日用雑貨類、下郷衆(現村山市湯野沢など)の出す野菜や山菜などです。大町の市のほかに、北口には二六市、荒町には四八市も立っていました。町内には県内最多の十基の市神がありますが、過去の市の繁盛を物語っています。往古の五十市の賑わいを知る市神は、今何を思いながら鎮座しているのでしょうか。

大町市神|河北町観光なび
熊野神社くまのじんじゃ大欅おおけやき
[谷地中部・谷地南部地区]

高関は神町・天童方面から谷地への玄関口にあたり、熊野の大欅と茶屋の柳は旅人にとって格好の目印となっていました。高関という地名は出入口を固める関所を連想させますが、実は熊野神社の東南角を落ち口に堰を掘り、付近の高台一帯を開拓し、村をつくってきた歴史に由来しているらしい。熊野神社は古い由緒を誇り、平安時代の天慶(てんぎょう)年間(938~47)に創建されたとされています。その後、鎌倉時代の文治年間(1185~90)に、平家一族の河村太郎繁貞が改めて紀州熊野神社を勧請(かんじょう)して、杉の下集落の北方の橋板(現在の工業団地か)に社殿を建立したといわれています。熊野神社が高関の現在地に移ってきたのは、熊野第二十代法印宥伝(ゆうでん)の文明年間(1469~87)の頃で、その時、法印が手植えした若木が、この大欅になったのですから、樹齢530年近くになるわけです。すくっと立つ周囲6.7メートルの太い幹は東西2本に枝分かれして23メートルの高さに達し、根本には延享元年(1744)の湯殿山大権現の石碑を抱えています。高関の開発の歴史や最上川・渋川・逆川の変遷を見つめ続けてきた大欅は、べに花温泉 ひなの湯ができて、新しい住宅地となった下野一帯の変わりようを、今、どんな想いで眺めているのでしょうか。

舟ふなつなぎの松ふなつなぎのまつ
[谷地中部・谷地南部地区]

谷地南部小学校のプールの西側に荒町北の稲荷神社があります。境内には400年を超す松の樹があり、舟つなぎの松と呼ばれています。この松の北側には渋川があり、茨江(ばらえ)・鉾江・道海を通って、最上川に注いでいます。大洪水になれば、小舟などは渋川へと避難したでしょうから、舟をつないだという伝承が生まれても不思議でありません。最上川舟運の帰り荷の主なものに塩があります。谷地で仕入れた塩の量は、「春千駄秋千駄」と言われ、年間4000俵にものぼりました。明治中期までは、渋川沿いに塩蔵が何棟も並んでいたそうです。だから、塩を運ぶ小舟がこの付近まで、何回も往来したものと思われます。昔、味噌や醤油は自家製でした。谷地で醤油屋を創業した家は、天保の頃の桜井源蔵家であり、その一族や近所に業者が増えてきました。やがて、醤油と味噌は岩根沢や本道寺の宿坊に卸され、三山詣りのお行様をもてなしました。また、老人の記憶によると南部小学校には沼がいくつもあったと言いますから、川が蛇行していたため湿地がのこっていたのかも知れません。最上川に待望の堤防工事が始まったのは、昭和八年になってからのことで、以来河北町は災害の少ない安住の地だと言われるようになりました。

荒町上組の市神あらまちかみぐみのいちがみ
[谷地中部・谷地南部地区]

市の立つ所には普通市神が祀られました。それらは無銘の自然石が多く、加工されたものや刻銘のあるものはほとんどありません。もともと市の立つ場所の目印として置かれたもので、それがいつしか市の繁栄を祈り、市神として祀られるようになりました。谷地に現存するものが八カ所、記録に残るものが一カ所で、その数は県内で最も多く、それぞれ月に数回もの市が開かれたとなると、毎日のようにどこかで市が開かれていたことになります。そんなことを思うと、近郷からも多くの人が集まり、過去のこの町のにぎわい振りが想像されます。その名残に北口市の中のお雛市が全国に知られる雛祭りとして、今も盛大に行われています。荒町にも四と八の日に開かれた上市、中市、下市がありました。上は神明様(荒町南)、中はお不動様(荒町中)、下は稲荷様(荒町北)で交互に市が開かれていました。市神は三カ所とも現存しています。荒町上組の市神は、神明様(皇太神社)のけやきの大木の空洞を祠として祀られています。小ぶりな自然石で、昔は力自慢の若者たちがこれを持ち上げて力比べをしたと伝えられています。そのほか、荒町には帷子市(麻織物)などもありました。それらは市の起源は、近世中頃からと言われており、明治中頃には衰退していきました。

荒町上組の市神|河北町観光なび
月山堂遺跡がっさんどういせき
[谷地中部・谷地南部地区]

谷地の街の南端を東西に横切る国道287号からさらに300メートルほど南に、月山堂とよばれる塚があります。その東側一帯では、耕作中に土器片が出土することが知られており、昭和30年代に遺跡として登録されました。一帯に県営ほ場整備事業が実施されるのに先だって、昭和五六年に町教育委員会によって発掘調査が行われました。その結果、五棟の竪穴住居跡、カマド跡三カ所、井戸跡一基などが検出されました。遺物としては、土師器や須恵器などの土器、鉄の刃物や農具を研ぐのに用いた砥石、炭化米、モモの種、クルミなどが出土しました。土器の特徴によって、奈良時代から平安時代はじめ頃にかけて生活が営まれたことがわかります。全体としては日常的に使用された器や道具が多いのですが、「井」「吉」「万」などと墨書された土器片や、スタンプのような形の石製品も出土しており、当時の生活について想像がふくらみます。調査期間中に設けられた「町民参加発掘の日」は、多くの町民の参加を得て盛況だったという記録があります。この年まで熊野台遺跡、馬場遺跡、一の坪遺跡などの発掘調査が4年続いており、町民の考古学熱も高まっていた時期でした。

月山堂遺跡|河北町観光なび
両所神社りょうじょじんじゃ最上三十三観音もがみさんじゅうさんかんのん
[西里・元泉地区]

両所神社は、急勾配の下馬坂を登りきった平地の高台にある。この神社の歴史は古く、用明天皇(586~587)の時代という説があるが、源義家が前9年の役(1051~62)で奥州征討の後、建立されたとも言われる。祭神は月夜見命と保食神で由緒によると源義家が鳥海の楯攻めで難儀したとき土地の翁が鳥海・月山両権現に祈願すれば勝てるといったので、義家は「戦いに勝てば分霊を祀る」ことを神に誓い、戦いのあと鳥海・月山の神を勧請しこの地に権現堂を建立したのが起源とされる。その後慶長年間(1596~1614)には最上義光が社殿を再建、宝暦年間(1751~63)に和田六太夫が本殿を再建し、「両所大権現」と称したが、明治維新の際に両所神社に改称された。しかし昭和20年5月の大火で類焼し、昭和23年7月に再建された。境内の北側緩やかな斜面には「最上三十三観音」の石仏がひっそりと佇んでいる。建立されたのは嘉永4年(1851)で、沢畑の補陀落山三十三観音や四国八十八ヶ所石仏建立の3年後のこと。寄進者は西里地区の有志である。最初は神社の川向いの仏向寺跡に近い傾斜地にあったが、土砂崩れの恐れが出たため、昭和50年に現在地に移された。

両所青麻権現りょうじょあおそごんげん
[西里・元泉地区]

旧両所中公民館の西側、通称「おぶく山」に青麻大権現の碑が建っている。青麻は、夏に薄紅色の花をつける多年草で、正確には苧麻(ちょま)カラムシという植物で、古くから越後上布や小千谷縮(おぢやちぢみ)、奈良晒(さらし)などの衣料の原料として珍重された。江戸時代の青麻の代表的産地は山形・福島・新潟の三県で、中でも山形の置賜地方や村山地方は我が国有数の産地とされた。河北町では、主として吉田岩木・新吉田方面から山麓地帯が主産地で、紅花が栽培される以前から幕末にかけて多く栽培され、紅花や綿などとともに畑作の基幹作物であった。青麻を栽培するには「随分肥えたる性よき地」を選び、そのため「屋敷内は猶よし。」(農業全書)と言われ、肥沃の土地が充てられた。しかし、青麻の根は他の植物と違って強く張るため、後作は中々不可能とされた。「青麻権現」は青麻の豊作を願って、多くは文化・文政年間(1804~1829)に建立された。それらは、かつての青麻栽培の盛時を偲ばせるものである。地域によっては、今でも『中風除けの神様』として信仰されているという。

造山の牛山と虎山
[谷地西部・北谷地地区]

造山には、地名の語源となったと言われる牛山と虎山という二つの山がありました。一つは明治の初め、寒河江谷地間を結ぶ道路工事のため崩されたが、もう一つは日塔久左衛門(当主は章彦氏)家の屋敷内に残っています。直径10メートル、高さ3メートル位の小高い山で、頂に大日如来の祠が祭られています。その近くに樹齢五百年以上のサイカチの巨木があったのだが、昭和58年の強風で倒れ、根株だけ残っています。山を築いたのは、溝延城の家臣で、時代は天正年間(1573~1592)の頃。「溝延長老記(こうえんちょうろうき)」によると、二つの山の頂上を掘り、黄金の鶏雌雄二羽のほか、砂金壱千盃を奉納、更に太鼓橋を架けたと言われています。それで造山には長者様が居たと言う伝説が残っています。牛山、虎山の東の方に紅花畑を開き、八人の番人(花守)を置いきました。その八人衆が畑中の先祖ではないかと言われています。このことから畑中より造山の方が早く開けた土地だということです。日塔家は、近世期末から在方商人(ざいかたしょうにん)として「萬屋」を名乗り、上方との商取引で財を成した豪農です。牛・虎は、北東「鬼門」に相当しますが、何の目的で造られたのか謎は深まるばかりです。

下槇遺跡
[谷地西部・北谷地地区]

国道287号を要害から西里へ向かって間もなく、南側に少し入った水田の脇に遺跡を示す立て札があります。昭和55年に県教育委員会が発掘調査を行った後、県営ほ場整備事業が実施され、現在のような美田となりました。調査の結果、竪穴(たてあな)住居跡(じゅうきょあと)が八棟、ほかに溝跡や土壙(どこう)などが検出されています。出土した土器は土師器がほとんどで、壺・高坏・器台などの種類があります。土器の特徴から、古墳時代前期(約1600年前)頃に営まれた集落跡と考えられます。特筆すべき遺物として2点の「石製(せきせい)垂飾(すいしょく)」があります。(図はそのうちの一点。滑石製。高さ2.7cm、最大幅2cm、厚さ0.2cm)同様の資料は全国で十数例しかありません。上部に二つあいている穴に糸を通してつり下げて、装飾として用いられたと考えられています。ただし、耳飾りなのか、首飾りの一部なのか、そもそもこの形が何を表現しているのか、まだ明らかになっていません。他にも、勾玉(まがたま)に小さな勾玉がたくさんくっついたような「子持ち勾玉」や直径3.7cmほどの石製円板など、日常生活からは少し離れた遺物が出土しています。占いやまじないなど祭祀(さいし)的な様相を強く感じさせる遺跡といえます。

下槇遺跡|河北町観光なび

下槇遺跡|河北町観光なび
天満の一里塚
[谷地西部・北谷地地区]

谷地から白岩への旧道は、出羽三山参詣のために関山峠を越えてくる人々や、村山方面からの三山道者たちの通路としても栄えた道でした。西里の中島・治部橋を通り、天満地区が終るあたりの南側路傍に「一里塚」がひっそりとあります。かつては、塚に植えられた姿の良い松がそびえていて、遠くからもよく目立ったのですが、二年前枯れてしまいました。現在は、その切株が150年の年輪を晒して朽ち果てるのを待つかのようです。異説がありますが、この一里塚は谷地白岩間の里程の目印としたものと伝えられています。昔の旅人は歩く外なく、一里毎に塚に植えられた樹木を目印とし、その下で旅の疲れをいやしたのでしょう。切株の根元に、「馬頭観世音」と刻まれた嘉永2年(1849)に建てられた石碑があります。荷駄を負い共に旅する馬の安全を祈ったのでしょう。並んで「山神」と刻字された小さめの碑もあります。 少し奥に、高さ3m程に育った若松があります。5m四方程の小さな「塚」に、昔をいとおしむかのように草花も植えてあります。谷地小唄に、「見返り松の一里塚、ホホホイ谷地ヨー」と唄われています。

梵字を刻んだ万年堂
[谷地西部・北谷地地区]

西里改善センターの近く、根際道と国道287号線の交差点を挟んで西北と西南方の田圃の中に、幅1mの笠をかぶり高さ1.2mほどの梵字を刻んだ万年堂、通称「御堂」(みどう)があります。石質は凝灰岩で、梵字は月山神を表す「キリク」=阿弥陀如来と葉山の白盤神を表す「バイ」=薬師如来が刻まれています。御堂が建てられたのは享保11年(1726)で、地元の名門・逸見庄左衛門家の三十代目当主俊賀(しゅんが)氏によるものです。俊賀という方は、敬神崇祖の道念厚く、諸国の神社仏閣に(極めつけは四国の金毘羅様)供養塔を建立したと言われています。万年堂は、もともと4つあったらしく、西北の阿弥陀如来を祭る御堂は、近年まで、馬捨て場(大型家畜の埋葬所)として利用されていました。地球の温暖化が危ぐされる現代・・・。大自然を神として崇敬し「山」そのものを信仰の対象として生きた時代(出羽三山など山岳信仰の盛んだった時代)の人々の目にはどう映るのでしょうか。

梵字を刻んだ万年堂|河北町観光なび
溝延八幡神社みぞのべはちまんじんじゃ大欅おおけやき
[溝延地区]

大樹を神ながらと畏怖することは、縄文・弥生の太古からの風儀で、いまも人の心にほのかに伝わる、日本人の美観である。木は何とは限らないが、松や欅、榎などがあり、いちょうは時代が下がってからのようである。高関熊野神社の大欅や内楯三社宮の大いちょうなども人々から尊崇をあつめている。溝延八幡神社境内の東参道にひときわ大きな緑陰をなしている欅の大樹は、神ながらと畏怖されている。樹齢は凡そ750年と推定され、目どおりの幹まわり7.2メートル、樹高29メートルに達する神木であるけやきは記紀万葉の時代には。「槻(つき)」の木と言った。その大木はとくに百枝槻(ももえつき)と呼ばれ、人々は百枝槻の下に集まり、会合を行い、また、宴飲をおこなったことが、雄略天皇記や天武天皇紀にでている。寛文7年(1667)再建になる溝延八幡神社本殿は県文化財に指定されている重厚なお社である。大樹の青葉若葉が天上を覆う広大さは、ご祭神の神威の広さ豊かさ、そしてぬくもりである。

溝延八幡神社の大欅|河北町観光なび
溝延西小路みぞのべにしこうじ追分石おいわけいし
[溝延地区]

旧溝延本村内では、ただ一つの追分石があります。道の分岐点に立って旅人に行先を教えてくれます。この石には「右やまでら、左おさなぎ」としっかり刻まれています。やまでらは、説明を要しませんが、「おさなぎ」とは、東根市神町の現若木(おさなぎ)神社のことです。以前、白岩の富士屋(工藤芳治氏宅)で、行者に配った道しるべの板木を見せてもらいました。それには『宿門三郎、しらいわ、ひわだ、てんま、にしざと、此所御制札より右江行、ようがえ、やち、此所たかせきの舟渡場、しんでん、おさなぎ』とあり、三山詣りが終わったあと、「おさなぎ」を参詣する人が多かったことを示します。若木は、疱瘡(ほうそう)守護神日本一社若木大権現が鎮座する所で、疱瘡よけの神として崇敬をうけ、信仰圏は東北全域に広がっていました。2005年3月、合併前の宮城県河北町を訪れた時、海蔵庵板碑群近くの公民館の所に、二基の「若木権現」の石碑がありました。土地の人々は、すでにそのいわれも読み方も知りませんでした。三山詣りを終えた行者の中には、白岩から三泉をへて、溝延経由の人たちも多かったのでしょう。山寺の参詣者は、右を舟戸の渡しへ、左の道は田井の渡しへ出たものでありました。

溝延八幡神社本殿みぞのべはちまんじんじゃほんでん
[溝延地区]

溝延八幡神社本殿は、棟札によると、寛文7年(1667)6月の建立で、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)といわれる社殿の秀作であるとされます。桁行一間(けたゆきひとま)(7尺5寸)、梁間一間(6尺)で、正面に向拝(こうはい)が付いています。軸部の構造、組物、軒、蟇股(かえるまた)、妻飾、向拝の虹梁など、すべて詳細の解説は省略しますので、是非出むかれて、じっくり御覧になってください。できれば他の神社の本殿(写真でも結構)と比較してみると江戸時代前期の丁寧な建造物であることを確認してもらえると思います。縁起によると天慶年間(938~947)の創建とか、源頼義・義家父子の崇敬がいわれたりしますが、現在の八幡神社の社地は、大江氏が南北朝時代に溝延城を築いたとき、縄張りされたものと考えます。かつて溝延八幡の神宮寺(八幡神社を管理していた寺)の本尊阿弥陀如来の厨子に「奉造立溝延八幡宮大菩薩 願主大江義信朝臣」とあって至徳2年(1385)が記されています。この頃を溝延八幡や神宮寺が整備される時期と考えたいところです。寒河江荘の三八幡とされた溝延・谷地・寒河江八幡の中で最も古い建造物であるこの本殿が、溝延の大欅とともにその歴史を語っています。

不動木遺跡ゆするぎいせき
[溝延地区]

南を寒河江川、東を最上川で区切られた本町の南東部一帯には古墳時代から奈良・平安時代頃に営まれた集落の跡が多く確認されています。その中で南に離れ寒河江川に近いところに位置するのが不動木遺跡です。県営ほ場整備事業にともなって、昭和60年に県教育委員会によって発掘調査が行われました。その結果、竪穴住居跡が八棟、掘立柱建物跡が二棟、ほかに溝跡などが検出されています。遺物としては、土師器と須恵器という土器を中心に、砥石などが出土しました。魚を捕る網のおもりに用いた土錘が二点出土しており、寒河江川に近いという立地の特色を示しています。実際に訪れてみると、寒河江川の堤防が間近に見え、堤防などなかった時代には洪水に見舞われたのではないかと心配になります。しかし、堆積した土層の様子を見ると、周囲より高いしっかりした場所を選んでいることがわかります。ただ、集落が営まれた期間は奈良時代の後半から平安時代の始めにかけての数十年間に限られているようです。周囲の遺跡では比較的長い期間にわたって集落が営まれる例が多いのに、不思議なことです。

阿弥陀堂あみだどう(阿弥陀図像板碑)
[谷地西部・北谷地地区]

板碑の中央に厚肉彫りに仏像を刻みだし、土の中に埋めこんで祀ったものでしょう。今はコンクリートに嵌入(かんにゅう)しているので、もとの仏像と板碑の大きさは測定できません。仏像は印相(いんそう)が不明ですが、阿弥陀如来坐像と考えます。コンクリート台からの高さは仏像42.5cm、板碑が104cmです。年代は鎌倉末期のものと思います。西村山地域では唯一といってよい珍しいものですが、天童市の仏向寺・石仏寺や荒谷地区などに、これと似た石像が見られます。これらの石像は、鎌倉時代に成生荘(なりゅうのしょう)(現天童市)の仏向寺を中心に、一向(いっこう)俊聖(しゅんじょう)という坊さんが広めた念仏信仰圏に分布するようなのです。河北町内にも鎌倉末から南北朝時代にかけて、天童仏向寺末の長延寺・西蔵寺(谷地)、真光寺(西里)、阿弥陀寺(溝延)が建立され、一向派の念仏が普及していました。この阿弥陀堂の所有者である宝泉寺は、室町時代に開かれた浄土宗の寺院ですが、開山に協力した斎藤市郎左エ門が、阿弥陀堂の場所も寄進したと伝えます。寺より古いこの仏像は、河西へ進出した一向派念仏信仰の遺産でしょう。堂脇の古松が枯れたのが残念です。

溝延城址みぞのべじょうし
[谷地西部・北谷地地区]

溝延城は、大江家寒河江城の支城として1350年代ころから築城され、1580年代には廃城になった城で、南北朝時代から戦国時代の末期まで230~240年の間存在しました。この間に現在の溝延地域が、ほとんど三重の堀で囲まれるという大きな平城(ひらじろ)として整備されてきました。現在、溝延城址公園のある所が本丸で、東西145m、南北160mくらいあり、公園は本丸の西端のほぼ真中にあります。今一区と二区の一部に当る本丸は、江戸時代には各組の郷蔵があった所で、明治に入って役場や小学校が建てられた公共性の強い場所でした。明治の洋風建築であった旧役場を解体したあとに、昭和六十三年三月城址公園が作られました。ついでの折に是非城址公園に立寄ってみてください。有名ではないかも知れませんが、桜の名所でもあります。公園の模型は、三の丸の復元は十分でありませんが、出来るだけ忠実に旧溝延城を復元したものです。道路・地名・土塁跡の分布・寺社の配置などに、今なお土地に刻まれた旧溝延城の姿を思い画いてください。

溝延城址|河北町観光なび
溝延最上川渡船場
[溝延地区]

町村合併当時、町内には県営渡船場が2カ所と町営渡船場4カ所、計6カ所の渡船場がありました。数えてみてください。最後まで残っていたのが町営溝延渡船場でした。それでも昭和52年9月からは冬期運航を休みにし、同61年度には廃止になりました。この渡船場は昭和10年代前半までは、約300m程度上流にありました。江戸時代、出羽三山詣りにきた道者たちに、白岩からこの渡しを越えて、山寺に参詣するための木版刷りの道案内を白岩の宿屋で配っていました。何よりも天童・村山へ結ぶ交通の要衝でした。城米の積み出しもありました。最上川向かいには、江戸時代から広大な溝延分の畑地が広がっていました。昔は紅花、明治中期からは桑、今は桜桃が主作物でしょうか。昭和20年代までは春蚕・夏秋蚕・初秋蚕の盛りには、荷車やリヤカーが6~70台も渡船場に並ぶ風景があったといいます。嫁時代、肩にくい込む桑を入れたバカはけごの重みを渡船場と一緒に思い出すお婆ちゃん方もいます。船頭さんのこと、大水と舟止めのこと、流水の変化や個人の持舟のこと、聞くことは数多いです。今はない村の人たちの大事な大事な足でした。

溝延最上川渡船場|河北町観光なび
恙虫祠つつがむしほこら
[溝延地区]

最上川の合流点近くの寒河江川堤防上に、恙虫明神を祀った石堂があります。これは荒砥の毛谷(けだに)大明神の分霊で、厄除けと死亡者の供養のため大正5年(1916)に建てられたのです。世話人として髙橋傅市・後藤三四郎・木村七蔵の名が見えます。荒砥に毛谷大明神が祀られたのは万延元年(1860)ですから、それ以前に置賜地方では恙虫病が奇病として恐れられていたようです。大正2年にこの地区では、24名の罹患者があり13名が死亡しています。新開の中洲に出入りした人々が次々に死んで終(しま)ったので、これを新開病と呼んで恐れました。その病原体をリケッチアと命名したのは、対葉館を拠点に研究を重ねた長与又郎ら伝染病研究所の研究陣でした。その間、長登廣治をはじめ渡部治贇(はるよし)・田原謙治郎・大山惣作・菊地匡などの町医師が、献身的な協力や資料提供をしたといわれています。夜入浴中に皮膚を軽く逆撫でして、ちくりと痛む部分をピンセットで抓んで切除してもらうのが、最良の治療法でした。脇腹や陰部を刺すことが多かったので「恙虫は助平な虫だ」とののしったりしましたが、触診を拒んで死んだ人も多かったと語り継がれています。

熊野台遺跡くまのだいいせき馬場遺跡ばばいせき
[溝延地区]

南を寒河江川、東を最上川で区切られた本町の南東部一帯には古墳時代から奈良・平安時代頃に営まれた集落の跡が多く確認されています。熊野台遺跡と北側に隣接する馬場遺跡は、その中でも中心的な集落だったようです。県営ほ場整備事業にともなって、熊野台遺跡は昭和53年・54年に県教育委員会によって、馬場遺跡は昭和54年に町教育委員会によって発掘調査が行われました。その結果、多くの竪穴住居跡(たてあなしきじゅうきょあと)や掘立柱(ほったてばしら)建物跡(たてものあと)などが検出され、重なり合っている例も多く、何代にもわたって集落が営まれ続けたことがわかりました。遺物としては、土師器(はじき)と須恵器(すえき)という土器を中心に、糸を紡ぐための紡錘車(ぼうすいしゃ)や鉄の刃物や農具を研ぐのに用いた砥石、炭化米、ウリ・モモ・スモモの種などが出土しています。「大刀自」と刻まれた大(おお)甕(がめ)の破片もあり、史料に照らして「酒造りに使われたものか・・?」などと話題を提供しました。現在は一面の美田となっていますが、目をこらし耳をすますと、当時の生活のドラマがよみがえってきそうです。