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雛人形とひな市

雛人形とひな市|河北町観光なび

谷地のひな市は約500年も前の昔、谷地には毎月十八もの市が立ち、大変な賑わいを見せていました。そのうち、谷地城主白鳥十郎長久公が開いた旧暦3月2日の市がちょうど雛の節句にあたるもので、いつしかそれが「節句市」、「おひな市」とよばれ、今日に至っています。

河北町のお雛様

谷地の雛たち

昔、谷地が誇った紅花や青苧の取引が、最上川舟運による京阪との交易によって、多くの京文化がこの地に導入されました。雛もその一つで、町内にはたくさんの雛が大切に保存されています。毎年、月遅れの雛の節句である4月2日と3日に雛市が立ち、自宅での雛飾りが公開されています。お雛様の衣装にも紅花染を使われています。(『時代雛』と『紅花資料館〜みちのくで出会う京ロマン』より)

享保雛

槙久右衛門家寄贈

面長の優美な表情で、男雛の袍や女雛の表着は、錆朱糸で統一した金襴を用いています。倹約令以前に作られた豪華絢爛を極めた雛で、男雛は65cmの高さがあります。

大橋弌峰氏寄贈

槙久右衛門家寄贈

京都の人形師、初代大橋一峰氏による作品です。実物同様に織った衣装に金糸を施した精緻な人形です。平成17年に二代目大橋一峰氏により寄贈を受けました。

立雛たちびな

神雛(紙雛)とも称し、平安時代のひいな遊びとお祓いの形式が、時代の流れで結ばれた。雛の発端は和紙でつくられた流し雛から室町期の立雛に始まり、寛永頃全盛期を迎えますが、しだいに装束をまとった座雛へと移っていきます。(河北町所蔵)

立雛(たちびな)|河北町観光なび
寛永雛かんえいびな

江戸時代の寛永期(1624~)に作られた、座雛の始まりといわれる雛です。

元禄雛げんろくびな

元禄期(1688~)には、寛永雛をさらに整えた形の雛が作られました。男雛の冠と頭はまだ一木造で、女雛は天冠を着けていません。(紅花資料館所蔵)

元禄雛(げんろくびな)|河北町観光なび
古式享保雛こしききょうほうびな

享保雛の様式が確立する以前の雛という意味から、古式享保雛と呼ばれているお雛様です。表情はやや素朴さを残し、男雛は頭部が冠と共作り(一体成形)になっている。(國井家所蔵)

享保雛きょうほうびな

八代将軍吉宗時代の享保期(1716~)頃の雛で、元禄雛の流れを汲み、享保文化の隆盛とともに豪華絢爛を競っていきます。面長の優美な表情に金襴や錦の装束を用いて、男雛は袖を張り、女雛の袴はふくらみをもたせた、大変豪華な作りです。その豪華さから、度々幕府のお触れにより製造が制限されました。(紅花資料館所蔵)

享保雛(きょうほうびな)|河北町観光なび
有職雛ゆうそくびな

宝暦期(1751~)頃から作られた雛で、公卿の装束を有職故実(ゆうそくこじつ)に基づいて正しく人形化したものです。装束によって「衣冠(いかん)雛」「狩衣(かりぎぬ)雛」「直衣(のうし)雛」の3種類があります。(河北町所蔵)

有職雛(ゆうそくびな)|河北町観光なび
有職束帯雛ゆうそくそくたいびな

男雛の衣装は、有職装束の黄櫨染の御袍(天皇が儀式に着用)、女雛は有職衣装です。江戸時代より継ぐ京人形司の五世大木平蔵氏が作り上げた逸品です。(須藤家所蔵)

有職束帯雛(ゆうそくそくたいびな)|河北町観光なび
次郎左衛門立雛じろうざえもんたちびな

幕府の御用人形師に迎えられた京都雛屋次郎左右衛門が、有職雛に着想を得て作ったものといわれ、丸顔・引目・おちょぼ口が特徴です。大名家に人気を集め、宝暦期に武家社会で流行しました。(紅花資料館所蔵)

次郎左衛門立雛(じろうざえもんたちびな)|河北町観光なび
古今雛こきんびな

明和期(1764~)頃に、上野池端の大槌屋が原舟月に作らせたものが始まりといわれ、写実的な容姿と見た目のきれいな装束で流行し、現代雛の原型といわれます。当初は木地彫に切り目でしたが、需要の増加とともに彫塑に改良され、両眼に瑠璃玉(ガラス)をはめ込んだものもあります。(紅花資料館所蔵)

古今雛(こきんびな)|河北町観光なび
三人官女さんにんかんじょ

江戸後期、内裏雛の添え雛として飾られるようになります。中央の官女は留め袖の既婚者で嶋台を持ち、両脇は振袖の未婚者で銚子を持ちます。(鈴木家所蔵)

三人官女(さんにんかんじょ)|河北町観光なび
五人囃子ごにんばやし

江戸後期、壇飾りの様式がにぎやかになってくると、内裏雛の添え雛として作られたといわれます。(細谷家所蔵)

五人囃子(ごにんばやし)|河北町観光なび
随身ずいしん

寛政頃(1789~1800)に京都で作られ、後世に雛壇に添雛として登壇することになる。随身は申すまでもなく御所の警護にあたった近衛兵で、弓矢・太刀をつけています。

おぼこ官女かんじょ

おぼこは「おぼこい」の語源から来ていて、愛らしい童女を表す言葉である。往時の「天児」の姿を受け継ぐものとされ変わり雛の一つである。

御所人形ごしょにんぎょう

江戸中期から、宮中で愛玩用や贈答用に作られたといわれ、木彫や桐塑の本体に真っ白な胡粉を塗り重ねています。大きな頭に丸々とした幼児の姿をしています。

竹田人形たけだにんぎょう

大阪の人形浄瑠璃、竹田座の操り人形を模して作られたので竹田人形と呼ばれます。歌舞伎の場面を表現した釣り目、への字の口元、肢体のひねりなど特徴があります。

土人形つちにんぎょう

日本古来の伝統工芸品の人形で、低火力の素焼きに胡粉をかけて泥絵具で彩色をした人形であり、素朴な味わいが多く人々に愛されています。

相良人形さがらにんぎょう

上杉鷹山の時代、家臣の相良清左衛門厚忠の手によって、余技として作られたのが始まりです。江戸時代後半の庶民文化とほのぼのとした情感を持つものとして受け継がれて来ました。相良人形は粘土で型抜き、乾燥、素焼きのう胡粉で素地を整え、顔を描いてから彩色します。

後(のち)の雛とは

9月9日、重陽の節句にお雛様を飾ることをいいます。3月3日の節句に飾る雛に対して後の雛と呼ばれました。江戸時代、貞享・元禄の時代が始まりだと思われます。重陽とは、陽(奇数)が重なる日、そして、奇数の中での1番大きな陽数「九」が重なるという意味だそうです。奇数は良いことを表す陽数です。重陽の節句は邪気を祓い、長寿を願って菊の花を飾ったりしてお祝いをする五節句のひとつです。9月の重陽の節句は、8月朔日などに行われましたが、春の雛まつりのように一般的に行われたのではなくいつしか廃されてしまいました。